今となっては藤の代表作となった本作だが、「最初はわたしが吉蔵をやる予定ではなかったらしい」という。「本作の製作発表会見の前日か前々日くらいに(本作の助監督だった)崔洋一さんから電話がかかってきて。大島さんに会ってくれないかと言われた。それで大島さんの事務所に行き、その場で読んでほしいということで台本を渡された。でも読み始めて、あまりにもセックスシーンが多いんで、これが映画になるのかと思い、ぼう然とした」と述懐するも、そのセックスシーンを通じて、その奥底にある男女の愛、情念のようなものをこういう切り口で描き出した作品であると感じ、「人間ってそうだな。いいなと思っちゃったんです」。
しかしその決断に至った理由には前段階があったという。藤が所属していた日活が、1971年を境に一般映画から日活ロマンポルノにシフトチェンジして再出発。その時に親しい友人だった監督から、ロマンポルノへのオファーがあったというが、当時、テレビ出演をし始めた頃だった藤は思わず躊躇してしまい、そのオファーを断ってしまったという。だがそのことが心残りで傷となっていたという藤は、「せっかく大島さんからお話が来て。せっかく奥にきれいなものが見えているのに、手前にあるものに怯えてしまったら、表現者として一生後悔すると思った」と述懐。その後、同作のプロデューサーだった若松孝二と、新宿のゴールデン街まで飲みに行き、しばしの逡巡のあと、オファーを受けることを決意。それからほとんど間を置かずに帝国ホテルでの製作発表が行われたという。

いわゆる撮影所システムが崩壊した後に映画界入りした黒沢監督は、藤の話を聞き「撮影所システムに憧れがある。うらやましい」と語ることしきり。そんな黒沢監督に向かって「僕は今の映画のつくり方は好きですよ」と語った藤は、「僕は日活時代はどうやって俳優として演技をしていいのかまったく分からなくて。地に足がついてない不安があったんです」と告白。そこで当時、気鋭の映画監督として注目を集めていた鈴木清順監督の家に一升瓶をかつぎながら「監督、わたしを使っていただけませんか」と直談判したことを明かす。だが鈴木監督の返答は「使ってあげたいけど、わたしに使わせてあげたいと思わせる“何か”がないんですよ」というもの。
その言葉に納得したという藤は「人によっては厳しい言葉に聞こえるかもしれないけど、わたしはそこから表現者にとって“何か”があるってなんだろうと。カッコ良く言うとそれを探す旅のようなものがはじまった。わたしの青年時代にいただいたありがたい言葉だと思っております」と述懐。だがこの話には後日談があり、1980年の鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』のキャスティングの際に声をかけられたのだという。「鈴木清順さんがわたしのことを忘れたのかというとそうではなくて。主役に近いような、何人かの登場人物のひとりとして呼んでいただけたんです。だから何もないと思われていた僕にも、ちょっとは何かあるのかと思ってくれたのかなと。ですが、ちょうどその時、テレビで主役のシリーズものが入っておりまして。自分は(掛け持ちで作品を)だぶらせることがうまくできないんです。ですから本当に恥ずかしながらお断りした記憶があります」と語った藤のエピソードに、黒沢監督も思わずビックリ。日本の映画史の“もしも”を夢想しながら興奮ぎみの黒沢監督だったが、当の藤は「鈴木さんがただ冷たいだけではないんですよ、ということが言いたかっただけですよ」と付け加えた。
