宮本監督は「5年くらい前に旅⾏で能登に来て、景⾊が綺麗で海が綺麗で⼭が綺麗で…あまりにも好きで!そこから元旦の震災を知り、⼼配になり何かできないかと思って結果的に映画を作ることになりました。今能登にいる皆さんとお話ができていることが夢のようです。僕は舞台の演出家なので、30年映画を撮っていなかったんです!そんなことを越えてでも、何とか能登の皆さん、全国の皆さんにこの映画を観てほしいという想いで作りました。⿅賀さんと常盤さんの熱い想いで出来た映画でもありますので、皆さん楽しみにご覧ください」と感謝を込めた。

この作品が作られた経緯を聞かれると、監督は「8⽉にボランティアでこちらに来たとき、ある⽅にこう⾔われました。『亞⾨さん、ボランティアはやらなくていい!あなたみたいな⼈は、この状況を伝えることをしてほしい』。僕は『僕は舞台の演出家なんで、出来ません』と⾔って東京に帰りました。そのあとどんどん胸が苦しくなってきたんです。何が⾃分にできるんだろう?この現状をどうにか伝える⽅法はないのか?そう考えながらテレビのニュースを⾒ていると、もう⼼配で⼼配で。その時にハッキリ『やっぱり映画は作れない、被災地に⾏って映画を作るなんて、迷惑なことをしてはいけないのではないか』と思ったんです。そして珠洲市や輪島にいる何⼈かに電話をして、『⼤丈夫ですか?もう僕も映画を作るなんてことは考えないようにします』と伝えたんです。すると、怒られました。『何⾔ってるの!?私たちは前に進もうとしている。あなたも進みなさい』と。そこからたった2ヶ⽉くらいで映画を作りました。⿅賀さんは映画の説明をする前に『僕はもう出ることに決めたから』と⾔っていただき、常盤さんも『能登のためなら』とすぐに返事をしてくださって。皆さんの熱い気持ちが濃縮したショートフィルムになっています」と、能登の⽅、そして⼆⼈の想いに⿎舞してもらったという経緯を振り返る。
⿅賀は「亞⾨さんとは何度も舞台でお仕事をしていて、“能登の⽅に⼒を与えたい、今の能登を全国に伝えたい”という想いで映画を作るとおっしゃるので、僕は内容も聞かずやる、とお答えしました。災害にあって、⽔害の後に倒壊した家屋の前で撮影をしました。倒壊した家屋を実際に⽬の当たりにすると、テレビで⾒るのとは全然違いまして、その家に住んでいた⼈の苦しみであるとか、悲しみなどの想いが伝わってきて、僕もこの役を演じる上で嘘のない芝居をしたいと思いました」と覚悟の伝わるコメント。
常盤は「亞⾨さんは憧れの演出家で、ミュージカルのイメージがあるので、私の仕事の範囲では演出をしていただける⽴場にないので、そんな機会が訪れるのであれば是⾮とも参加したい!という思いがまずありました。亞⾨さんが撮られる映画はどういう⾵になられるんだろう、と楽しみな気持ちで実際に現場に⾏くと、亞⾨監督は映像の世界の常識を⾶び越えてこられる演出をされる⽅で、こんな素敵な⽅が撮られる映画は温かくなるだろうなとすごく期待をしました。実際に映画を観て、とても能登への気持ちが込められた温かいものになっていて、嬉しくなりました」と本作への参加に喜びを覗かせた。