<暉峻創三(映画評論家・⼤阪アジアン映画祭プログラミングディレクター) コメント>

社会からよそ者にされたと感じ、どうしようもない鬱屈や憤怒、破壊衝動を内に抱えて⽣きる男⼥の物
語。しかしその爆発⼨前の暴⼒性を、監督の⻄崎⽻美は、徹底して端正な映画語法と静謐な⾳響設計、
そして礼儀正しい会話と動作の積み重ねで炙り出していく。主題と⽅法論のこの対極性に、ぞくぞくせ
ずにはいられない。

<中川奈⽉(映画監督) コメント>

特別、何にも感じていないというような顔で、「よそ者の会」の⼈間は不満を語り合う。ぽつぽつと話
す⾔葉の奥で、⾒えない憎悪を燻らせている。その思いがどれほどのものなのか、私たちには推し量れ
ない。彼らにも量れないからこそ、彼らは「よそ者」である。その⿊い感情の⽭先をどうすればいいの
か、ゆるゆると⼤学を彷徨って、ギリギリまで迷っている。本当に必要なものは凶器ではなかった。誰
かのためにと動き出す時、ようやく迷いを断ち切れるのだ。

<⻄⼭洋市(脚本家・映画監督) コメント>

昭和からずっとあるものと令和の現在がこすれ合って⽣じる軋り(きしり)のようなものを⻄崎さんは
発⽣させようとしているのかもしれない。もちろん⻄崎さんは昭和の⼈ではない。それでもここには
(この映画には)異なる時間軸が重層的に存在しているような感触がある。
「よそ者」というのは、現在という時間からはじき出されて、いつでもなく、いつでもありうるような
時間を⽣きる⼈と映画のことだろう。いま、そこで、軋りを⽴て始めた⻄崎さんの映画は、いずれは激
しい衝突⾳を響かせてくれるだろう。

<深⽥晃司(映画監督) コメント>

よそ者同⼠であったはずの彼らがよそ者ではいられなくなる関係性の変転が緊張感を⽣んでいく。
持続低⾳のような川野邉修⼀さんの芝居に引き込まれ、⼤学のありふれた階段教室を全く異なる空間に
⾒せてしまう演出に瞠⽬しました。

<藤井仁⼦(映画批評家) コメント>

器⽤な映画とはいえない。だが、⼈影の消えた⼤学キャンパスという「無」から「有」を⽣みだそうと
した気概はこの時代に貴重なものだろう。とはいえ、⾼く跳ぶためにはまずは⼆本の⾜で⼤地をしっか
りと踏みしめて⽴つ必要がある。その意味ではがらんどうの階段教室で、友達とも恋⼈ともいえない⼀
組の男⼥が机の上を⼟⾜で歩きまわる物語上は無駄かもしれない固定のロング・ショットに、信ずるに
⾜る何ものかを⾒た気がする。

<松崎健夫(映画評論家) コメント>

“よそ者”たちの眼差しは、どこか虚ろなのである。それは『ファイト・クラブ』に近似した危うい思想を孕みながらも、彼らの信念が揮発して浮遊しているかのように感じさせる由縁だ。今作は校舎内とい
う閉じた世界を描いているにも関わらず、テロリズムによって疑似家族的関係を導くような社会性が伴
っている。その要因のひとつは、学⽣側ではなく清掃に従事する⼤⼈の側を主役にした点にあるのだろ
う。まるで社会的弱者など存在していないかのように黙殺する、悪しき潮流に抗う⻄崎⽻美監督の姿勢
がここにある。“よそ者の会”に賛同するような⼈々は静かなる憤怒と不満を抱えながら、今⽇もどこか
で破壊による社会の再構築を夢⾒ているからだ。

<宮崎⼤祐(映画監督) コメント>

俳優・川野邉修⼀に引き込まれた。
ウダウダ⾔ってないでさっさとやっちまえ。
あいつらに奪われたすべてを今すぐ取り戻せ。

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